優生学(eugenics)――この言葉を聞いて、多くの人はナチス・ドイツによる悲劇や、遠い過去の過ちを想起するだろう。しかし、優生思想は歴史の彼方に消え去った遺物ではない。それは、現代社会のきわめて「合理的」で「日常的」な議論の背後に、姿を変えて潜み続けている。

1883年、フランシス・ゴルトンによって創始された優生学は、「人類の遺伝的質を改善する」ことを目的とする思想および社会運動として誕生した。望ましい形質を増やす「積極的優生学」と、望ましくない形質を減らす「消極的優生学」に大別されるが、歴史的な人権侵害の大部分は、後者の「消極的優生学」、すなわち特定の人間を「劣った存在」とみなして排除しようとする動機によって引き起こされてきた。

20世紀前半、ナチス・ドイツは「生きるに値しない命」の排除を掲げ、T4作戦によって障害者らを組織的に殺害した。日本においても、旧優生保護法(1948年〜1996年)に基づき、障害者への強制不妊手術が国家的な隔離・排除政策として具現化した。これらは、紛れもない歴史的事実である。

では、なぜ現代において再び、優生思想的な言説が力を持ち始めているのか。それは、優生思想が単一の偏った政治理念からではなく、現代社会を支える「能力主義」や「効率性」といった、一見すると正当な論理からごく自然に導き出されてしまう構造を持っているからだ。こうした背景は、まさに『華氏マイナス320°』という舞台劇で表現されものであった。

ここでは、現代の日常的な議論から優生思想へと収束していく4つの論理的経路を解剖し、私たちが抱える「無自覚な排除」のリスクについて警鐘を鳴らしたい。

4つのルートイメージ

ルートⅠ:能力主義(メリトクラシー)という「公正な」罠

第一の経路は、現代社会の核心的価値観である「能力主義」から出発する。

「努力した者が報われる社会は公正だ」という信念は、多くの現代人にとって疑いようのない正義である。しかし、この信念は裏を返せば、機会平等を前提とした社会で生じる格差を、「個人の努力不足」や「才能(素質)の自然な差異」として正当化する論理へと容易に暗転する。

マイケル・サンデルが『実力も運のうち』で指摘したように、能力主義は勝者に傲慢さを、敗者に屈辱を与え、格差を「固定された能力の差」とみなす傾向がある。この「素質の差」が遺伝的要因と結びついたとき、能力主義は優生思想への高速道路となる。低学力層や低収入層への選別・排除を、「遺伝的に能力が低いのだから仕方がない」と容認する言説は、このルートⅠから生まれる。

「努力で変えられる」という能力主義の前と、「遺伝で決まる」という遺伝決定主義の前は論理的に相互矛盾する。しかし、双方が「社会にとって不利益・低生産性な存在は排除・選別すべき」という同一の消極的優生学の結論に着地する点は、極めて逆説的であり、優生思想の多層的な構造を物語っているものだ。

ルートⅡ:遺伝決定主義と「科学的」選別論

第二の経路は、科学的知見から直接的に規範を導こうとする「遺伝決定主義」のアプローチである。

行動遺伝学などの進展により、学力や収入、性格などに遺伝が小さくない影響を与えていることが明らかになりつつある。この知見自体は中立的な科学的事実だが、ここから「環境介入(教育や福祉)の効果は限定的である」という規範的な判断を導き出すとき、論理は飛躍する。

このルートでは、環境改善の有効性を否定し、「遺伝的素質の優れた人口を増やす、あるいは選別する政策が合理的である」という判断へと至る。現代ではポリジェニックスコア(多遺伝子点数)の商業利用や着床前診断といった技術が、この「科学的」な選別論の技術的基盤となっており、新しい形の優生学(ネオ・ユージェニクス)として浸透しつつある。

ルートⅢ:功利主義的効率論――経済言語による道徳の無効化

第三の経路は、公共資源の有限性を前提に、社会全体の最適化を名目とする「功利主義的効率論」である。現代においてもっとも抵抗感なく、かつ強力に優生思想を浸透させているのが、このルートである。わかりやすい例で言うと、満員電車に車椅子で乗り込むな、とか舌打ちをする乗客たち。

ここでは、「生産性の低い存在への投資は効率が悪い」「社会的コストや税金の無駄である」といった言語が、排除を正当化するために用いられる。歴史的事実として、ナチスのT4作戦の主たる動機は民族的憎悪ではなく、戦時下における「社会的負担(食料や医療資源を消費する存在)の除去」という純粋に効率性を追求する論理であった。この構造は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件における加害者が展開した論理とも構造的に一致する。

「税金の無駄」「社会コストの最小化」といった効率性を語る経済と言語は、語り手自身に差別的意図の自覚(自己認識)を与えない。語り手は、自分を「客観的で合理的な判断を下している」と認識するため、従来の道徳的・倫理的な批判が無効化されてしまう。中立的な経済言語によって差別がコーティングされたとき、優生思想的排除は、現代の資本主義社会において最も浸透しやすいリスク要因となる。

ルートⅣ:下方比較の感情と防衛本能

第四の経路は、論理よりも心理的な感情に端を発するアプローチである。社会的地位や自尊心の脅威を感じた個人が、心理的防衛として、自分より低い位置にある他者を標的とする「下方比較」の感情である。

「あの種の人間が増えるのは困る」「自分たちの税金が、なぜ彼らのために使われるのか」という感情的排除が先行し、その心理を正当化するために、後付けでルートⅠ〜Ⅲの遺伝論や効率論のロジックが動員される。社会的不安が高まる時代において、この感情的なルートは、容易に大衆的な優生運動へと発展する危険性を秘めている。

日常的効率論から優生思想への傾斜リスク

ここまで見てきたように、優生思想は単一の思想的誤謬ではなく、異なる複数の論理経路が最終的に同一地点に収束する、極めて強固な構造を持っている。

ここで重要なことは、「特定の教育機関への補助金は無駄」といった日常的なコスト論議そのものが、直ちに優生学を意味するものではない、ということだ。公共政策において資源配分の効率性を論じること自体は必要不可欠である。

しかし、注意しなければならないのは、「なぜ無駄か」「どう解決すべきか」という問いを突き詰めていく解決策の模索プロセス自体が、構造的に「生産性による生存・権利の選別」という優生学の論理通路を開く役割を果たしている点である。

効率性を追求する「合理的」な議論が、その前提として「生産性の低い命は後回しにされても仕方がない」という価値判断を無自覚に受け入れたとき、私たちはすでに優生思想の入り口に立っている。日常的なコスト論議は、無自覚な排除思想の温床になりやすいというリスクを、私たちは常に自覚しなければならない。

おわりに――「無自覚な排除」に抗するために

優生学は、歴史の教科書に閉じ込められた過去の悲劇ではない。それは、能力主義、遺伝学の進歩、功利主義、そして人間の防衛本能といった、現代社会のきわめてありふれた論理と感情の中に、その根を深く下ろしている。

特に、経済と言語によって差別的意図が隠蔽された「無自覚な排除」は、現代において最も対処が難しい倫理的課題である。私たちが日常的に口にする「合理的」「効率的」という言葉が、誰かの生存や権利を根底から否定する論理につながっていないか、常に問い続ける必要がある。

優生思想の連鎖を断ち切るためには、歴史的教訓を忘れないことはもちろん、私たちが「合理的」であると信じている論理そのものが持つ排除の構造を、冷徹に解剖し続けなければならない。それこそが、現代を生きる私たちに課せられた、もっとも重要な倫理的責務である。

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