――テレワーク時代の生活構造と、よりよい社会の設計
場所から解放された労働は、本当に自由か

テレワーク、モバイルワーク、リモートワーク。
呼び名は違えど、本質は一つだ。
仕事が「場所」に縛られなくなった
これは間違いなく、
近代労働史における大きな転換点である。
- 通勤が消えた
- 地方でも都市の仕事ができる
- 家族と過ごす時間が増えた
- 身体的負担は軽減された
この意味で、
リモートワークは確かに「解放」だった。
だが同時に、
別の拘束が静かに始まった。
仕事が「どこでもできる」ことの本当の意味
場所から解放された結果、
仕事は何から解放されなかったか。
時間である。
むしろ逆だ。
- いつでも働ける
- すぐ返せる
- 夜でも対応できる
- 家にいても仕事がある
仕事は「職場」を失い、
生活の内部に侵入した。
キッチンが職場になり、
寝室が会議室になり、
家族の時間が「中断可能」になった。
ここに、
リモートワークの第一の罪がある。
生活と労働の境界が消えた社会
かつて労働には、
明確な「終わり」があった。
- チャイム
- 退勤
- 移動時間
- 職場という物理的境界
それらが失われた社会では、
人はこう考えるようになる。
まだできる
もう少しやれる
今やらないと迷惑だ
結果として起きたのは、
- 長時間化
- 自己管理の過剰負担
- 休むことへの罪悪感
- 燃え尽きの個人化
自由の名を借りた自己拘束である。
功:リモートワークが確かに生んだもの
ここで、
功績を正当に評価しておく必要がある。
リモートワークは、
- 育児・介護と労働の両立を可能にした
- 障害や疾病を持つ人の就労機会を広げた
- 地方や海外との接続を日常化した
- 組織の属人性を減らした
これは「一時的対応」ではなく、
不可逆の進化である。
この果実を、
元に戻すことはできないし、戻すべきでもない。
罪:社会が準備していなかったこと
問題は、
制度と文化が追いつかなかったことだ。
- 成果評価は相変わらず時間基準
- マネジメントは対面前提
- 休息は自己責任
- 孤立は見えない
「どこでも働ける」社会に、
「どこでも回復できる制度」は用意されなかった。
結果、
壊れるのは個人だけになった。
よりよい社会とは何か
――場所の自由ではなく「回復の設計」
ここで問うべきは、
リモートワークを続けるか否かではない。
どういう社会設計で受け止めるか
よりよい社会の条件は、明確だ。
条件①
労働に「終わり」を制度として戻す
- 強制オフライン時間
- 即応を求めない文化
- 非同期前提の評価
自由とは、
選べることではなく、
止められることだ。
条件②
生産性の低下を「異常」と見なさない
- 体調不良
- 家庭事情
- 心理的停滞
それらを織り込んだ設計なしに、
持続可能な社会は存在しない。
条件③
孤立を前提にしたケア構造
リモート社会では、
孤立は例外ではなく常態だ。
- 定期的な非業務接続
- 成果を伴わない対話
- 見守りの制度化
これは甘さではない。
崩壊予防コストである。
母性経済的視点からの結論
母性経済革命の文脈で言えば、
リモートワークは未完成の技術だ。
それは、
- 効率化には成功した
- 生活との調和には失敗した
理由は一つ。
回復を前提に設計されていないから
よりよい社会とは、
- どこでも働ける社会ではない
- どこでも壊れない社会である
自由を、もう一段深くするために
「どこでも仕事ができる」という事実は、
人類に大きな可能性を与えた。
だが、その自由を
人が耐えられる形に変換する責任は、
社会側にある。
自由は放置すれば、
最も冷酷な制度になる。
だからこそ、
いま必要なのは働き方改革ではない。
生き方を壊さない労働設計である。
それができて初めて、
リモート社会は進歩と呼べる。


