第1回:社会の「高密度化」と、失われた失敗の知識化
序論:失敗を「許容できない」社会の正体
現代の日本社会において、ひとつの小さなミスが過剰なまでに叩かれ、組織がその隠蔽に奔走する光景は日常化している。なぜ私たちはこれほどまでに失敗を恐れ、排除しようとするのか。
その背景には、戦後から現代に至る中で進んできた、社会システムの「高密度化」と「精緻化」がある。インフラからサービス、行政システムに至るまで、あらゆる要素が緊密に連結された現代社会は、畑村洋太郎氏が指摘するように「局所的な失敗が全体的な致命傷になりかねない」構造を抱え込んでいる。
この高密度な社会において、私たちは失敗を「進化の糧」として扱う能力を失いつつあるのではないか。
失敗の減衰:伝わらない「身体的経験」
畑村氏の『失敗学』における重要な論点に、「失敗情報は伝わりにくい」という性質がある。
失敗の当事者が持つ生々しい経験(直接経験)は、報告書やマニュアルという形式知に変換される過程で、その本質的な意味や痛みが削ぎ落とされ、急速に減衰していく 。 かつての日本社会、特に高度経済成長期までの現場には、試行錯誤の余白があった。失敗は痛みを伴う「身体的経験」として共有され、それが次なる改善を生む原動力となっていた。
しかし、社会が成熟し、あらゆるプロセスがデジタル化・マニュアル化されるにつれ、私たちは失敗を「0か1かの記号」としてしか捉えられなくなった。マニュアルを遵守することが絶対正義となり、その背後にある「なぜこの失敗が起きるのか」という構造的想像力が欠落していったのである。
社会のブラックボックス化と「思考の停止」
社会システムが高度に精緻化された副産物として、私たちはシステムの「中身」が見えないブラックボックスの中で生きるようになった。
畑村氏は、失敗を知識化するためには、事象の背後にある「因果関係」を論理的に辿る必要があると説く。しかし、現在の高密度な社会では、個々の人間が担当する領域は細分化され、全体像を把握することは困難を極める。
失敗が起きた際、その原因を構造的に分析するのではなく、「誰がルールを破ったか」という犯人探し(責任追及)に終始してしまうのは、社会そのものがブラックボックス化し、因果関係を思考する訓練の場を失ってしまったからに他ならない。
システムデザインへの視座:失敗を「知識」として組み込む
これからの社会システムデザインに求められるのは、失敗を完璧にゼロにすることではない。それは、高密度化した現代社会においては不可能であるだけでなく、進化の停止を意味する。
真に必要なのは、失敗を「不名誉な記号」から「システムの脆弱性を教える信号」へと再定義することである。
- 情報の非減衰化: 形式的なマニュアルに依存せず、失敗の構造を疑似体験できるような「仮想演習」の場をシステム内に組み込むこと。
- 責任から原因へ: 失敗を個人の資質に帰す「父性的・規律的な管理」を脱し、エラーをシステムの不備として客観的に捉える「母性的・包摂的な設計」へと移行すること。
結論:失敗を「胚芽」に変えるために
失敗は、それ自体が新しい価値や安全を生み出す「胚芽」である。 効率化の果てに遊び(バッファ)を失った現在の社会設計を、もう一度「失敗を通じて学習し続ける有機的なシステム」へと書き換える必要がある。
次回は、この「失敗を許容する余白」を、現代のテクノロジーがいかにして設計し得るのか、畑村氏の説く「未明事象への挑戦」という観点から掘り下げていく。




