触れれば崩れる、黒い「知の塊」

イタリアのナポリ近郊に、人類史上最も悲劇的、かつ貴重な「タイムカプセル」が眠っていました。 西暦79年、ヴェスヴィオ火山の噴火によって壊滅した街、ヘルクラネウム。ポンペイと共に火山灰に埋もれたこの街には、大量のパピルスの巻物を収蔵した別荘(通称:パピルス荘)がありました。

これらの巻物は、火砕流の高熱で瞬時に炭化し、黒い炭の塊となって保存されました。 18世紀に発見されて以来、歴史家たちはこれを何とか読もうと試みました。しかし、炭化したパピルスはあまりに脆く、物理的に開こうとすればボロボロに崩れ去ってしまいます。

「中にはアリストテレスの失われた著書があるかもしれない」。 そう考えられながらも、私たちは2000年間、目の前にあるその「知の塊」をただ眺めることしかできませんでした。

しかし2024年。ついにその封印が解かれました。 巻物に指一本触れることなく、AI(人工知能)と粒子加速器を使って、内部の文字を透視することに成功したのです。


挑戦:X線にも映らない「インク」を見つけろ

このプロジェクトは「ベスビオ・チャレンジ (The Vesuvius Challenge)」と呼ばれ、元GitHub CEOのナット・フリードマンらが立ち上げた世界的な賞金コンテストです。

彼らが採用した手法は、「バーチャル・アンラッピング(仮想的展開)」です。 まず、炭化した巻物を高解像度のCTスキャン(X線)にかけ、3Dデータ化します。そしてデジタル空間上で、ねじれたパピルスの層を一枚一枚剥がして平面にします。

しかし、ここからが本当の難関でした。 古代のインクは「煤(スス)」と「膠(ニカワ)」で作られており、主成分は炭素です。そして、書かれているパピルスもまた、炭化して炭素の塊になっています。 金属インクと違って、「炭素の上に書かれた炭素」は、人間の目にも、通常のX線にも全く映らないのです。

ここでAIの出番です。 研究チームは、微細なCTスキャンデータをAI(機械学習モデル)に読み込ませました。インクが乗っている部分は、繊維の質感がごくわずかに変化し、ひび割れ(クラックル)のパターンが異なるはずだ──。 AIは、人間の目にはただのノイズにしか見えない微細なテクスチャの違いから、「インクの存在確率」を検出し、文字として浮かび上がらせることに成功したのです。

瞬間:最初の言葉は「紫(Purple)」

2023年後半、歴史的な瞬間が訪れました。 アメリカの21歳の大学生、ルーク・ファリターが開発したAIモデルが、真っ黒な画像の中から、数文字のギリシャ文字を検出したのです。

“πορφύραc”(ポルフィラス)

それは古代ギリシャ語で「紫(Purple)」を意味する言葉でした。 かつて王族や富の象徴であった「紫色の染料」について言及した箇所です。 このたった一単語が、2000年の沈黙を破りました。この瞬間、私たちは「物理的に不可能な壁」を、アルゴリズムの力で突破したのです。

その後、ユセフ・ネーダーらによるチームがさらに解読を進め、巻物全体の内容が明らかになりつつあります。 そこには、エピクロス派の哲学について──音楽や食事、そして「喜び」がいかに人生において重要か──が記されていました。古代の人々もまた、現代の私たちと同じように「豊かに生きること」について思索を巡らせていたのです。

意義:ChatGPTとは真逆の、「真実へのAI」

昨今、生成AI(ChatGPTなど)が「もっともらしい嘘(ハルシネーション)」をつくると批判されることがあります。 しかし、ベスビオ・チャレンジのAIは対照的です。 これは、新しい文章を生成するのではなく、「そこにあるが見えなかった真実」を掘り起こすために使われました。

いわば、「デジタル・アーキオロジー(電脳考古学)」の誕生です。

この技術が確立されたことの意味は計り知れません。パピルス荘には、まだ数百本の「開かれていない巻物」が眠っています。さらに、地中にはまだ発掘されていない図書館がある可能性も高いのです。 これまで、古代ギリシャ・ローマの文献は全体の数%しか現存していないと言われてきました。AIはこの数字を倍増させ、ソフォクレスやサッフォーの失われた傑作を現代に蘇らせるかもしれません。

結論:AIは過去への扉も開く

私たちはテクノロジーを「未来へ進むための道具」だと考えがちです。 しかし、ベスビオ・チャレンジは、テクノロジーが「過去を取り戻すための道具」にもなり得ることを証明しました。

崩れかけた炭の塊の中に、かつての哲学者たちの息遣いが閉じ込められている。 AIという最新の「目」を手に入れた人類は、いま再び、古代の図書館の扉を開こうとしています。

歴史を学ぶために、これほどエキサイティングな時代はかつてなかったでしょう。 なぜなら、歴史の教科書は、これからAIによって書き換えられるのを待っているのですから。