宇宙よりも深い「孤独」を解消するために

私たちは長年、宇宙に向けて電波を放ち、地球外知的生命体を探してきました(SETIプロジェクト)。「宇宙には、私たち以外に話せる相手がいるはずだ」という希望からです。

しかし、もしその相手が、何万光年も先ではなく、私たちの足元の「海」にずっといたとしたら?

Project CETI (Cetacean Translation Initiative) は、最新のAI技術を使って、マッコウクジラの言葉を翻訳し、彼らと対話しようという野心的なプロジェクトです。 2024年、このプロジェクトは衝撃的な発表を行いました。クジラの鳴き声は、単なる感情の叫びではなく、**「人間と同じような、複雑な文法構造(アルファベット)」**を持っていることが判明したのです。

謎:海に響くモールス信号

マッコウクジラは、地球上で最も大きな脳を持つ生物です。彼らは真っ暗な深海で、「コーダ」と呼ばれるカチカチというクリック音を発してコミュニケーションをとっています。

その音は、まるでモールス信号のようです。 これまで生物学者たちは、この音を「私はここにいる」「私は誰々だ」といった単純な識別信号だと考えていました。しかし、彼らの社会性はあまりに複雑で、単純な信号だけでは説明がつかない行動(集団での狩りや、子育ての連携)が見られました。

「彼らはもっと複雑なことを話しているのではないか?」 その仮説を証明するには、人間の一生では聞ききれないほどの膨大な録音データと、そこからパターンを見つけ出す超人的な計算能力が必要でした。そこでAIの出番です。

発見:AIが見つけた「クジラのアルファベット」

Project CETIの研究チームは、カリブ海のドミニカ島沖で収集した数千時間分のクジラの音声を、ChatGPTなどの基盤技術である「大規模言語モデル(LLM)」と同様の仕組みで解析させました。

AIは、人間の耳では聞き分けられない微細なパターンの違いを検出しました。 2024年5月に発表された論文によると、クジラのクリック音には以下の要素が組み合わされていることがわかりました。

  • リズム(Rhythm): クリックの間隔のパターン。
  • テンポ(Tempo): 全体の速さを変えることで意味を変える。
  • ルバート(Rubato): 音楽用語のように、特定の音の長さを微妙に揺らす装飾音。
  • オーナメンテーション(Ornamentation): 末尾に特定のクリックを追加する修飾。

これらを組み合わせることで、クジラは「二重調音(Duality of Patterning)」──無意味な音素(あ・い・う)を組み合わせて、意味のある単語や文を作る能力──を持っている可能性が高いことが示されました。

これは、これまで**「人間にしかできない」とされてきた言語能力の特徴**です。 彼らは海の中で、ジャズの即興演奏のように複雑な文脈を共有し、高度な会話を交わしていたのです。

意義:「人間中心主義」の終わり

もし翻訳に成功したら、彼らは何を語るのでしょうか? 「ここにはイカがたくさんいる」という実用的な会話かもしれません。あるいは、「昨日の海流は冷たかったね」という世間話や、数世代にわたる「海の歴史」を語り継いでいる可能性すらあります。

このプロジェクトが私たちに突きつけるのは、技術的な驚き以上に、倫理的な衝撃です。

これまで私たちは、人間こそが地球上で唯一の「理性的で、言語を操る高等生物」だと自負してきました。その特権意識が、自然環境の搾取を正当化してきた側面もあります。

しかし、AIという「第三の知性」が、クジラという「別の知性」の封印を解いた時、私たちは「人間は特別ではない」という事実を突きつけられます。 それは怖いことでしょうか? いいえ、それは私たちが長年抱えてきた「宇宙で唯一の孤独な知的生命体」という寂しさからの解放でもあります。

結論:AIは「他者」を理解するための補聴器

「AIは人間から仕事を奪う」という議論が盛んです。しかし、Project CETIのような事例を見ると、AIの本来の役割はもっと別にあるように思えます。

それは、人間の狭い知覚能力を拡張し、「自分とは異なる存在(Alternative)」の声を聞き取るための補聴器としての役割です。

炭化した巻物の中に古代人の声を聴き(ベスビオ・チャレンジ)、深海の中にクジラの歌を聴く。 テクノロジーの究極の目的は、支配や効率化ではなく、私たちを取り巻く世界への「深い理解」と「敬意」を取り戻すことにあるのかもしれません。

AIが翻訳した最初のクジラの言葉が、「Hello」であることを夢見て。