日本は、かつてない局面に立っている。
- 人口減少
- 超高齢社会
- 世代間バランスの崩れ
- 労働力不足
そのなかで、「人生100年時代」という言葉が語られる。
しかし問いはこうだ。
私たちは老いをどう理解し、どう物語り、どう生きるのか。
『東京物語』を老いと若さという視点で読み直す
『東京物語』(監督:小津安二郎)は、日本映画史の頂点の一つとされる。
物語は単純だ。
地方から上京した老夫婦が、忙しい子どもたちに十分な時間を与えられず、やがて母が亡くなる。
しかし本質は、親不孝の物語ではない。
これは、
「老い」が社会の中心から周縁へ移動する物語
である。
戦前社会では、家制度のもとで老いは家の中心だった。
戦後都市化社会では、老いは“気遣う対象”に変わる。
若い世代は悪人ではない。
ただ生活に追われ、未来へ向かっている。
老いは、時間の中心から静かに外れる。
小津はそれを糾弾せず、ただ淡々と描いた。
老いとは、
誰かに迷惑をかけているという感覚を抱えながら、
それでも存在すること
なのだ。
文学の中の「老い」は?
文学において老いは、二つの軸で語られてきた。
1.衰退としての老い
- 身体の衰え
- 記憶の消失
- 孤独
老いは「失うこと」として描かれる。
だが同時に、
2.透視としての老い
- 欲望からの距離
- 時間を俯瞰する視点
- 若さの愚かさへの理解
老いは“透明な知恵”としても描かれてきた。
日本文学では、
老いは英雄的に称揚されることは少なかったのではないか。
むしろ、
静かな受容
諦念
ある種の諦観
として描かれることが多かった。
それは美徳でもあり、同時に沈黙でもあった。
そして、エンターテインメントの中の老い
一方、現代のエンターテインメントは違う物語を提示する。
たとえば、
Mick Jagger は80歳を超えてなおステージを駆け回る。
ロックとは、そもそも「若さの反逆」の象徴だった。
しかし、いまや、
老いてなお若さを演じる
という逆説が生まれていると言ってもいい。
老いを否定し、若さを延長する。
アンチエイジング産業も同様だ。
- 若く見えること
- 若く振る舞うこと
- 若く働くこと
が価値になる。
老いは“克服すべきもの”として扱われる。
いま、社会は「老い」の標識を用意しすぎていないか
- 定年
- 年金開始年齢
- 高齢者医療区分
- シニア割引
社会が、年齢で人を区分する。
それは制度上必要かもしれない。
しかし、
年齢というラベルが人生を固定していないか?
60歳だから引退。
65歳だから高齢者。
75歳だから後期。
それは身体や精神の実態と必ずしも一致しない。
社会が老いを“分類”しすぎると、
老いは可能性ではなく、役割の終わり
として理解される。
日本の人口ピラミッドの現実
日本は急速に高齢化している。世界に先んじて、と言ったほうがよい。
これは単なる福祉問題ではない。
- 働き方
- 家族構造
- 消費構造
- 政治意思決定
すべてに影響する。
若さを前提に設計された国家モデルは、
維持できなくなっている。
高度成長期は、
若者が多い社会
だった。
これからは、
老いが標準である社会
になる。それは、20年いや30年以上前からわかっていたことでもある。
では、どう老いを生きるのか
問いはここに帰着する。
老いを、
- 衰退
- 依存
- 負担
と捉えるのか。
それとも、
- 時間の蓄積
- 物語の継承
- 関係の熟成
と捉えるのか。
老いは避けられない。
だが意味づけは選べる。
若さの神話を越えていくべきだ
戦後日本は、
- 成長
- 若さ
- 生産性
を価値の中心に置いてきた。
だが人口構造が逆転した今、
若さの神話は維持できない。
必要なのは、
老いを前提にした社会哲学
である。
それは、
- 生産性だけで人を測らない
- 役割を固定しない
- 世代間を対立させない
- 失敗や衰えを包摂する
思想でしか代替し得ない。
だからこそ、母性経済に帰結しよう
『東京物語』は、
老いが静かに周縁へ移る姿を描いた。
ミック・ジャガーは、
老いを拒否する身体を見せる。
文学は老いを沈黙と諦観で描き、
エンタメは若さの延命で描く。
日本は今、
老いをどう物語るか
という地点にいる。
老いは終わりではない。
それは、
若さの速度から解放されること
かもしれない。
そして問いは残る。
僕らは、
- 若さを延命するのか
- 老いを引き受けるのか
- それとも老いを再定義するのか
国家の未来は、
人口統計ではなく、
老いをどう生きるかの哲学
にかかっている。それは、母性経済に帰結する哲学なのである。





