1984年の「新語」と、2026年の「呪文」
ジョージ・オーウェルが『1984』の附録で詳細に記した「ニュースピーク(新語)」の本質は、語彙を増やすことではなく、極限まで「削ぎ落とす」ことにあった。
目的は明快である。語彙を減らすことで、党にとって不都合な概念そのものを物理的に消し去り、異端的な思考(思考罪)を不可能にすることだ。
翻って現在、私たちはAIに対して「プロンプト(呪文)」を放ち、最適化された言葉を秒速で生成している。
一見、私たちの表現は無限に拡張されたかのように見える。しかし、その内実は「AIが理解しやすい形式」へと、私たちの思考や言語が鋳直しされているのではないか。私たちは今、自ら進んで「デジタル版ニュースピーク」の檻に足を踏み入れているのかもしれない。

「語彙の減少」は「思考の死」を招く
オーウェルは、「自由」という言葉がなくなれば、「自由」という概念を抱くことすらできなくなると警告した。概念を支える言葉を失ったとき、人間は複雑な現実を解釈する能力を失い、単なる反射的な記号の交換へと退化する。
現在の生成AIは、膨大な学習データから「もっともらしい、平均的な言葉」を量産する。私たちがAIの要約や生成に過度に依存するとき、そこから零れ落ちるのは、中上健次が路地の描写に込めた「血の匂い」や、パティ・スミスが叫びに託した「生の震え」といった、割り切れず、ノイズに満ちた身体的な言葉だ 。
畑村洋太郎氏の「失敗学」が説くように、未明事象(未知の失敗)に対応するには、マニュアル化された言葉の外側にある想像力が必要である。
AIによって平準化された「きれいな言葉」ばかりを使い続けることは、私たちの生存に必要な「ノイズとしての知性」を去勢していることに他ならない。
プロンプトという「思考の鋳型」
私たちはAIに正解を出させるため、プロンプト・エンジニアリングという技術を磨く。「結論から述べよ」「簡潔に要約せよ」「特定のペルソナで語れ」。これらの効率至上主義的な「呪文」は、思考を父性的規律に従属させる行為である。
AIが処理しやすいように思考を整理し、論理の飛躍や感情の揺らぎを排除していくプロセス。それは、真理省の官吏が歴史をニュースピークで書き換える作業と、構造的に極めて似通っている。プロンプトを洗練させればさせるほど、私たちの思考の「手触り」は失われ、AIというシステムの鏡に映りやすい「鋳型」に収まっていくのだ。
「生の震え」を宿すためのオルタナティブな言葉
AI時代のニュースピークに抗うには、効率化の対極にある言葉を再発見しなければならない。それは、特定の誰かの「ケア」のために紡がれる、交換不可能な母性的な言葉である。
AIは「最適な回答」は出せるが、その言葉に「責任」や「痛み」を宿すことはできない。私たちはAIを「正解を出す装置」としてではなく、自分の中に潜む「名付けようのない感情」を鏡のように映し出し、新たな語彙を発掘するための対話の触媒として定義し直すべきだ。
AIが生成した100の言葉よりも、自らの身体から震え出た1つの「不恰好な言葉」こそが、全体主義的な記号の支配から私たちを救い出す。
技術的自衛:自律型インフラとしての言語
我々が、n8nや自前のインフラ構築にこだわるのは、単なる利便性のためではない。中央集権的なプラットフォームが提供する「テンプレート化された思考」や、アルゴリズムが推奨する「流行のニュースピーク」から脱却するためだ。
自律的なワークフローの中で、自らの言葉を練り、実験し、失敗すること。その「余白」を確保することこそが、21世紀における技術的自衛権の行使である。
プロンプトは「窓」であれ
私たちの放つプロンプトは、自らを思考の檻に閉じ込めるための「ニュースピーク」であってはならない。それは、AIという鏡を通じて、自分の内側にある無限の多様性や矛盾を覗き込むための「窓」であるべきだ。
守るべきは、AIを使いこなす技術ではなく、AIという記号の海の中でも「矛盾」や「曖昧さ」を抱え続け、自らの言葉で世界を記述し続けようとする、自立した精神である。





