村上龍を単なるスキャンダラスな流行作家として消費することは、彼の作品に底通する恐るべき射程を見誤ることになる。彼が初期から一貫して描き続けてきたのは、私たちが無自覚に依存しているシステム――国家、資本、あるいは「母」という最初のプラットフォーム――に対する、徹底した拒絶と破壊の衝動である。

ここでは、既存のOS(社会に通底するシステム)が完全に機能不全に陥ったとき、知性はどのような対抗手段を提示するのかを、彼の2つの傑作から読み解く。

バグだらけのOSをリセットする「ダチュラ」

「コインロッカーに捨てられたこども」という、無機質で規格化されたシステムから弾き出された二人の少年、キクとハシ。

『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)において、彼らが中央集権的な巨大プラットフォームたる「東京」に向けて放とうとした毒薬「ダチュラ」は、単なるテロリズムの小道具ではない。

それは、すでに修復不可能なほどのバグを抱え、人間を規格化し、狂わせていく既存の社会システムを根底からリセットするための、極めて純粋で暴力的なソースコードであった。

システムの内側で規約に従い、少しずつ改善を図るような「まともな大人のやり方(背広の論理)」を、彼はダチュラという圧倒的な破壊によって嘲笑したのである。

冷戦崩壊前夜の空白と『愛と幻想のファシズム』

そして時代は進み、1987年。世界を二分していた「資本主義 vs 社会主義」という巨大なOSの対立構造(冷戦)が、まさに音を立てて崩れ去ろうとしていた前夜に『愛と幻想のファシズム』は産み落とされた。

ソ連崩壊や東欧の民主化が現実のものとなる直前、彼はすでに巨大な危機感を抱いていた。それは、代替案(オルタナティブ)としての体制が世界から消滅し、システムが「純粋な資本と欲望の論理」だけに飲み込まれていくという強烈な予感である。

対立構造というタガが外れ、すべてが単一のシステムに均質化されていくその恐るべき空白地帯に、彼は鈴原冬二(トウジ)という冷酷なカリスマを登場させた。

「狩猟社会」という別のOSのインストール

トウジが、停滞しきった日本の「馴れ合いOS」に対して持ち込んだのは、弱肉強食と絶対的なリーダーシップに基づく「狩猟社会」の論理である。

政治結社「狩猟社」を率い、経済からメディアまでを掌握していくその過程は、来るべきグローバル資本主義の極北を、数年早く極東の島国でシミュレーションしてみせた恐るべき予言の書であった。

感情や倫理を排除し、徹底した計算と冷徹な選別によって世界をデザインし直そうとするその姿は、ある意味で究極の「父性的なシステム」の完成形である。

対立するOSが失われた世界において、自律を保つためには、自らの手でこれほどまでに強固で冷酷なアーキテクチャを組み上げるしかないという、極限の思考実験であった。

破壊の先にあるビバリウムの設計へ

村上龍が描いた破壊衝動とファシズムは、私たちが目指す「母性経済(循環とケアのビバリウム)」とは対極に位置する、冷酷な野生である。彼が提示したシステムは、あまりにも血の匂いが強すぎる。

だが、なぜ彼がそれほどまでに苛烈な「別のOS」を構想せざるを得なかったのか。その究極の到達点が、冷戦崩壊後に描かれた『5分後の世界』(1994年)である。

第二次世界大戦で降伏を選択せず、地下に潜って多国籍軍と果てしないゲリラ戦を続ける「もう一つの日本」を描いたこの作品は、私たちが無自覚に享受している「戦後というOS(他国に依存した平和と消費社会)」に対する、もっとも過激なアンチテーゼであった。

地下の日本国民は、他者から与えられた規格品の平和(背広)を着ることを拒絶し、永遠に血を流し続けてでも「自分たち自身のルール(極限の自律)」を地下空間に組み上げたのだ。これは、前回の忌野清志郎が告発した戦後の欺瞞に対する、小説というフォーマットを用いた極北の回答でもある。

既存のシステムが完全に制度疲労を起こしていることを誰よりも早く見抜き、その上で「まったく別のOSを物理的に実装する」というその途方もない構想力と、ヒリヒリするような熱量。彼が鳴らしたこの危険なバックビートを直視せずして、次代の社会設計を語ることはできない。

巨大なシステムに絡め取られそうになったとき、私たちは思い出すべきだ。かつてこの国に、ダチュラを握りしめ、世界を丸ごと書き換えようとした強烈な意志が存在したことを。

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