――個人の生活と国家は、なぜ繋がらなくなったのか
いま私たちは、
「国家が何をしようと、自分の生活は別だ」
という感覚の中に生きている。
税制が変わっても、戦争が起きても、
為替が揺れても、選挙が行われても、
生活の実感はどこか遠い。
この断絶は、無関心ではない。
断念である。
クンデラが描いた「軽さ」とは何だったのか
ミラン・クンデラの
『存在の耐えられない軽さ』が描いたのは、
自由礼賛の物語ではない。
彼が暴いたのは、
意味を背負えなくなった主体の孤独だった。
国家のイデオロギーは重すぎる。
だが、個人の選択は軽すぎる。
どちらにも耐えられず、
人は「軽さ」の中に逃げ込む。
何も背負わない
何も信じない
何も継承しない
それは解放ではなく、
存在の空洞化である。
いま起きているのは「軽さの完成形」だ
冷戦が終わり、
国家はもはや「人生の意味」を語らなくなった。
一方で、個人はこう教えられた。
- 自己責任で生きよ
- 好きなことを選べ
- 失敗はあなたの問題だ
結果として生まれたのは、
国家も個人も責任を引き受けない世界だ。
国家は言う。
市場が決める
個人は思う。
自分が何とかするしかない
この相互放棄こそが、
現代の不穏さの正体である。
なぜ政治が「生活に届かない」のか
政治は、
数字・制度・理念で語られる。
生活は、
疲労・関係・時間で成り立っている。
この二つを接続する「中間層」が、
ごっそり失われた。
- 地域
- 労働共同体
- 家族的セーフティ
- 長期的関係性
それらが消えた社会で、
国家は個人に直接語りかける。
その言葉は、重すぎるか、空虚すぎる。
だから人々は、
国家の言葉を聞かなくなった。
母性経済革命は「軽さ」を否定しない
重要な点がある。
母性経済革命は、
この「軽さ」を道徳的に否定しない。
逃げたのではない。
耐えられなかったのだ。
- 成長を強いられ
- 競争を強制され
- 失敗を許されず
- 休む理由を奪われた
この条件下で、
人が「軽く」なるのは必然だ。
母性経済革命が問うのは、別のことだ。
軽さを生んだ構造を、
そのままにしてよいのか?
国家と個人を再接続するものは「意味」ではない
ここで、多くの思想が失敗してきた。
- ナショナリズムで再接続しようとする
- 理念で包摂しようとする
- 道徳で正そうとする
どれも逆効果だった。
母性経済革命は、
意味で繋ごうとしない。
繋ぐのは、
- 生活の回復
- 失敗から戻れる制度
- 依存が許される時間
- 役に立たない期間の正当化
つまり、
生き延びられる設計だ。
国家は、
人生の意味を与えなくていい。
ただし、
人生が壊れきらないよう支える義務はある。
軽さを超克するのは「重さ」ではない
クンデラは、
重さと軽さの二項対立を描いた。
だが、いま必要なのは第三項だ。
それは、
持続可能な重みである。
- 一人では背負えないが
- 国家ほど抽象的でもない
- 日常に触れ続ける重さ
母性経済とは、
この「中間の重み」を制度に戻す試みだ。
いま、不穏さの正体を見誤るな
いま広がっている不穏さは、
- 分断のせいでも
- 無関心のせいでも
- 民度の問題でもない
軽くならざるを得なかった社会構造の帰結だ。
母性経済革命は、
人に「重くなれ」と命じない。
軽くなっても、
落ちきらない世界をつくる
それができなければ、
国家と個人は、
これからも互いを見ないまま進む。
そしてその断絶こそが、
最も静かで、最も危険な崩壊なのだ。

