――『天国と地獄』は、なぜ「別の物語」にならざるを得なかったのか? 黒澤明とスパイク・リー、二つの時代が映す経済と人間
黒澤明『天国と地獄』(1963年)は、
日本映画史における犯罪映画の金字塔である。
個人的にも大好きで何度も観ている日本映画の1つ。
そして現在、
スパイク・リーによるリメイク版が、
ストリーミングという形で世界に公開されている。Apple TVにて。
物語の骨格は同じだ。
だが、見終えたあとに残る感触は、
ほとんど別物と言っていい。
この違いは、
演出や俳優の差ではない。
時代背景、経済の成り立ち、
そして個人の意識構造そのものが
決定的に変わったからである。
まず、黒澤明『天国と地獄』の時代背景を知る
――高度成長初期の「緊張」
1963年の日本は、
- 高度経済成長の入り口
- 企業社会が形成されつつある段階
- まだ貧困の記憶が生々しい時代
だった。
作中の主人公・権藤は、
企業の重役という「天国」にいる人間だ。ナショナルシューズという会社である。
だが彼の足元には、
- 労働者
- 下請け
- 都市の貧困層
という「地獄」が、
地続きで存在している。
格差はあるが、
まだ同じ社会に生きている感覚
が、この映画を貫いている。
黒澤版の「動機」は、構造そのものだった
黒澤版で重要なのは、
犯人が「悪人だから」犯罪を起こしたわけではない点だ。
- 社会の底に押し付けられた怒り
- 成長から排除された者の屈折
- 努力では越えられない壁
これらが、
犯行の背景として描かれる。
つまり黒澤は、
個人の犯罪を、
経済構造の問題として描いた
のである。
そして、スパイク・リー版の時代背景は
――格差が「断絶」になった社会
一方、スパイク・リー版の舞台となる現代アメリカは、
- 新自由主義が徹底された社会
- 成功は自己責任
- 貧困は自己責任
という価値観が、
深く内面化されている。
ここでは、
天国と地獄は、
もはや同じ社会に存在しない
富裕層と貧困層は、
文化的にも、心理的にも、
完全に分断されている。
リメイク版の「動機」は、心理化されている
スパイク・リー版では、
犯人の動機は、
- 個人的な恨み
- 承認されなかった怒り
- 自己実現の歪み
といった、
内面の物語として描かれる。(ストーリーはあまり紹介しないでおく。)
これは、
監督の演出の違いではない。
構造的な貧困を
語る言葉が、
社会から失われた結果
である。
この、経済の成り立ちの違いが生んだ「語れなさ」はなにか
黒澤の時代には、
- 経済成長=公共の物語
- 企業=社会装置
という理解が、
まだ成立していた。
だからこそ、
映画は「構造」を描けた。
現代では、
- 経済=市場原理
- 企業=利益装置
となり、
公共性は後退した。
結果、
問題は個人の内面に回収される
そして、世相=個人の意識の変化があるという事実
黒澤版の人物たちは、
- 自分が社会の一部である
- 自分の選択が社会を動かす
という感覚を持っている。
だから権藤は、
金を出すか出さないかで、
社会的責任を背負う。
一方、現代版の人物たちは、
- 社会は変えられない
- 自分はシステムの被害者
という感覚に近い。
責任は、
個人の心理に閉じ込められる。
スパイク・リーが「変質」を隠さないことに驚きもある
重要なのは、
スパイク・リーがこれを
劣化として描いていない点だ。
彼はむしろ、
この社会では、
こう描くしかない
という現実を、
正面から提示している。
だからリメイクは、
裏切りではない。
時代批評としての忠実さ
である。
そこで、ここに見える母性経済革命の必要性だ
黒澤版が描けたのは、
- 経済と倫理が接続されていた世界
スパイク・リー版が描いたのは、
- 経済と倫理が断絶した世界
母性経済革命とは、
この断絶を、
再びつなぎ直す試み
である。
それは、「天国」と「地獄」を再び地続きにするものだ
母性経済革命は、
- 上から救う
- 下を管理する
ことではない。
育てる
支える
関係を回復する
経済である。
黒澤の時代にまだ残っていた
「地続き感」を、
現代に再構築することは、「革命」に等しい。
二つの『天国と地獄』が示すもの
黒澤明『天国と地獄』は、
構造を描けた時代の映画だった。
スパイク・リー版『天国と地獄』は、
構造が見えなくなった時代の映画である。
だがその差は、
絶望ではない。
だからこそ、
次に必要なのが
母性経済革命なのだ。
経済を、
再び人間の物語に戻すために。
経済とは、そもそも経世済民のことでもある。
經世濟民(けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「 世 ( よ ) を 經 ( をさ ) め、 民 ( たみ ) を 濟 ( すく ) ふ」の意。

