序論:情報化社会の「完成」という特異点

1986年。この年は、日本社会において単なるバブル前夜の狂騒以上の意味を持つ。社会学者・見田宗介が予見した、近代の超克の先にある「情報化社会の完成」が、現実の臨界点に達した年である。
この年を境に、社会の駆動力は「モノの充足」という物理的な欠乏の解消から、際限のない「イメージ(記号)の消費」へと完全に移行した。
人々は実体のある豊かさではなく、それが社会の中でどう定義され、どう見えるかという「記号」の海を泳ぎ始めたのだ。この転換こそが、現代の私たちが直面している「生の空虚さ」と、経済から母性的なものが徹底的に排除されていくプロセスの起点となっている。

旋律の変質:アナログの震えからデジタルの記号へ

1986年の音楽シーンは、この「実体から記号へ」の変容を冷徹なまでに写し出している。
この年、日本のレコード生産枚数はついにCDにその座を明け渡す歴史的転換点を迎えた。音楽は、針を落として盤面の溝をなぞるという「身体的・物理的体験」から、レーザー光線が読み取る「0と1の記号」へと変質したのである。 BOØWYが『JUST A HERO』をリリースし、洗練されたデジタル・ビートとモノトーンのビジュアルが都市の記号として熱狂的に消費されたことは、その象徴である。
音楽は「聴くもの」から、特定のライフスタイルや階層を示す「身にまとう記号」へとスライドしていった。同時期に石井明美の「CHA-CHA-CHA」が街を席巻し、テレビドラマという巨大な虚構(イメージ)の文脈と一体化して大量消費された現象も、音楽が「固有の震え」よりも「共有される記号」として機能し始めたことを示している。

記号の極北:おニャン子クラブと「代替可能性」の提示

1986年を象徴するもう一つの音楽的現象が、おニャン子クラブの爆発的な流行である。
彼女たちの存在は、従来の「圧倒的な歌唱力や才能」という固有性を必要としない。放課後の延長線上にある「素人の記号」が、メディアというシステムを通じて大量生産され、消費される。
それは、見田氏が指摘した「システムによる感性の包摂」の極めて純度の高い現れであった。 「会員番号」という数字によって個々人が管理され、記号として交換可能(代替可能)な存在となる。この構造は、音楽という芸術領域さえもが、父性的な管理システムと記号的消費の論理に完全に従属したことを意味していた。
一方で、こうした無機質な記号化に抗うように、ハナタラシ等の過激なパフォーマンスを伴うインディーズ・シーンが「剥き出しの身体性」を強調せざるを得なかったことも、この年が持つ極端な二極化を物語っている。

「父性的システム」の完成と母性の包摂

見田思想の文脈において、1980年代は、規律と抑圧による「父性的支配」が、欲望と誘惑による「記号的支配」へと洗練された時代と定義される。 1986年に施行された「男女雇用機会均等法」は、その構造を端的に表している。
一見、女性の社会進出を促す包摂の動きに見えるこの法整備も、その本質は「母性的なケアや関係性の論理」を、既存の「父性的な効率と競争のシステム」へと強制的に適合させるプロセスであった。
音楽が売上ランキングやチャートという数値(記号)によって一元的に序列化されていったように、人間関係や労働の価値さえも「交換可能な機能」という記号に解体されていった。
ここで見田氏が説いた「存在そのものを肯定する」という母性的原理は、経済の表舞台から巧妙に排除され、システムの効率を維持するための「潤滑油」としての役割に押し込められたのである。

充足のパラドックス:なぜ「豊かさ」が「欠乏」を生むのか

1960年代までの日本は、モノの欠乏を埋めるという「充足の経済」の中にあった。
しかし、1986年に完成を見た「記号の経済」においては、豊かさは終わりなき消費を促すための「誘惑の装置」へと姿を変える。 記号は実体を持たないがゆえに、決して真の意味で人を満たすことはない。
デジタル化された音楽が無限に複製可能になったように、価値そのものがフラット化し、消費すればするほど「次なる記号」を求める渇きが生まれる。バブルという熱狂は、いわば「未来の価値を記号として前借り」し、現在を埋め尽くそうとする壮大な虚構であった。
この「無限の消費」という構造こそが、新自由主義が寄生する土壌であり、現代の私たちが抱える恒常的な不安の正体である。

結論:母性経済革命への回帰

1986年に始まった「無限の記号消費」は、現代のSNSや生成AIというテクノロジーにおいて、その極致に達している。
今や私たちの感性さえもが、アルゴリズムという記号のシステムに包摂され、自律性を失いつつある。
しかし、この1986年以降の呪縛を解く鍵は、テクノロジーの否定ではなく、その「使い方の革命」にある。AIや自動化(n8n)という高度な情報技術を駆使し、システムに奪われた「記号化できない時間」を人間の手に取り戻すこと。
それは、効率の追求という父性的論理を超えて、再び「存在の肯定」と「ケアの充足」へと回帰するための社会設計である。
デジタル信号の海の中で、かつてアナログ盤に針を落とした瞬間のような「交換不可能な震え」を社会に取り戻すこと。
1986年という臨界点を見つめ直すことは、記号に埋め尽くされた現代において、実体のある「母性経済」を再構築するための不可避な作業なのである。